昭和52年03月16日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」

 「此方がおかげの受け始め」。金光大神のだから、願いは皆がそういう生神のおかげを頂いてくれる事を願いとし、またそれを教導して下さる。それが教祖金光大神様だ。いうなら信心の、いわゆる大師匠である。私は今朝方からお夢を頂いて、黒人の歌手の人で、大変声のボリュームのある、大変上手な人で霊歌を歌う人です。肥えた私みたいに肥えた人です。でその人があの義太夫語りの扮装、裃つけてそして義太夫を語る。
 その相方を弾いておるのが、私ともまた誰とも分からんけれども、今度はまたその黒人歌手のその人が、今度はまた私のようでもあれば、そして横で、やっぱりあの裃つけて弾いて下さっておるのが、この方が教祖様であろうかともある、と言う様なお夢でした。それで、なら勿論その黒人ですから色が黒い。それでやっぱり色も黒くあのメイキャップしてる。太棹ですたいね。
 いわゆる義太夫のあの三味線を持って、相方を弾いて下さっておる人もやっぱり、黒人のように色を黒くしてメイキャップして、そして、この裃を着けて、その義太夫を語っておると。それがもう、あの酒屋の段を語ってある。(さんかたんし?)酒屋の段ていうのがございますよね。その酒屋、俗に酒屋と言います。その酒屋を語っております。それが、その大体非常にボリュームのある、素晴らしい声の持ち主ですから、もうその語り口が、もう素晴らしいんです。
 けれども中々義太夫には義太夫の、独特の節回しがありますから、その相方をする人が所々節をつけてやっておる。それでもうそれはなんとも言えん声口で、あのお酒屋の段を語っておる、というお夢でした。私はその酒屋の段と言う事は、教会と言う事だと、まぁ合楽教会と言う事だと思ってる。ここでは「有り難き勿体なき、恐れ多き」のお神酒を、いわば(じょじょう)造ったり、またそれを皆さんにあの開けて差し上げたり、また卸しに売ったり小売に売ったりする様な所がお広前ですから、お広前であろう。
 そして今日、私この18節の御理解を頂いて、尚それを強く思うたんですけれども。本当に教祖様が相方を弾いて、その義太夫の素晴らしいリズムに乗って、私はあの、まあ浄瑠璃を語っておる。まあ自分一人では、語りこなせない。節回しの難しい所は義太夫、相方をしておる人がつけてやって、そこにまあ何とも言えん味わいの、まっ義太夫浄瑠璃になっておる。それがまあ私の信心の、実際の姿であろうと私達は思うた。
 自分の語り口に、自分で酔うように、有り難いなあ、素晴らしいなあと、こう思うておる。けれどもそれには、相方という一つのリズムが加わらなければ、声も出ないし、節回しもよい節回しもよい節回しとはならない。そして所々はやはり一緒につけてもらわなければ、ほんとの浄瑠璃にはならない。というのが、まあ私の信心であろうなという、今日のお夢の中からそんなものを感じた。
 私は今度13日からちょうど、13、14、15、昨日まで、まあ大修行をさせて頂きましたんですけど。朝のご祈念だけはと一生懸命おすがりして出らせて頂きますけれども、それこそ合楽理念に信心は、合楽理念は助かりの理念だ、神人ともに助かっていく理念なんだ。それを、とにかく、有り難く楽しゅう、そして愉快に教えるのだと。そしてそれは絶対の助かりにつながる、絶対の道なのだと。
 これはもう極めていくと言う事は限りがないのだけれども、この一線上に出て、これを極めていけばね、いわゆる生神を目指すことにもなりゃあ、それには伴うてくるおかげも力も徳も受けられるのだ、というふうに、まあ合楽理念を皆さんにも聞いてもらっておりますけれども。この3日間それは、有り難いとか楽しいとか、なおさら愉快などと言った様なものは、さらさらない。
 もうただ一心にね、ただがむしゃらに神様におすがりする。もう苦しまぎれにすがるだけしかない。そして約1時間のご祈念と、控えにおります30分の間はもう、ただ苦しいばっかりで、とにかくお縋りする以外に何もない。楽しさもなからなきゃ有り難さもない。ただ苦しいばかり。もちろん愉快さなどというものは少ない。ところがおかげを頂いて、今日体がこんなに殆ど元通りに回復したような感じですが。
 もうとにかくここに出てくるのが有り難うして楽しゅうして、そして4時になって、ここに、ご神前に出らせて頂くのは、もうほんとに胸がドキドキするぐらい有り難いんです、やはりね、また愉快なんですね。もう本当にそこが痛いかわいがあって、仮に神様と交流するの、どうのといっても、有り難いものはない。ただ苦しいから、ただ、もうただおすがりをするだけのこと。そこで私は今度の、病気でまあいろいろ分からして頂いたことなんですけれども。
 これはもうほんっとに信心っていうのは、「日に日にさら」と言う事が言われますけれども「さら」っというのは、私日々さらな信心が段々でけておるんだと自分で思うておったけれども、本当にさらというのは、やはりほんとの元に返ると言う事だと、私は思うた。いうなら、初心に返ると言う事だと思うた。そして改めて思わせて頂くのですけれども、これは合楽理念を、もう本当の初心でもう一歩、第一歩からもう一遍、私はマスターし直すというか、もう一遍けいこし直さしてもろうて、いよいよ合楽理念の絶対、いよいよ間違いのないというものをですね。
 これはやり直させて頂こう、そしてそれが初心に返ることだというふうに、私は感じました。自分の語り口に自分で陶酔しておる、自分で酔っておる。けれども横にある相方のおかげで(でんこ)へも出らせて頂いておるのであり、それでもなおまだ節回しの難しい所はそれにつけて下さってある。私はなぜその黒人を使われ、夢ん中に使われたか、黒人というのはね、苦労しておる。いうならば(しじょう)しておる。または心が暗い、心が黒い心が汚い、という意味にもなるでしょう。心が真っ黒だとね。
 その私に教導して下さる教祖様がです、自分もその色の黒いところまでなり下がって、自分の程度はぐっと落として、そして、私のために相方を務めておって下さる。大分出れるようになった。こりゃ酒屋一段ぐらいはもう、一人でやってもよいかな、一人で語らしてもよいかなというところで、神様がちょっとこう手を離されると、もうどっこいぎっすりあがっていないというのが、実際自分自身私の信心であろうと。
 はあぁどこまでも生神への道というのは、大変な険しい、しかも厳しいことだなというふうに、もうここまで来たから、これから先は一歩一歩近づいて行くだけ、と言った様なものではなくて、もう一遍始めから初心に返って、やり直さして頂いて、改めてけいこをつけて頂きながら、そして私が言っておる合楽理念の絶対性、もう一遍それをね、行じ直さしてもろうて、しかも初心で行じさせて頂いて。
 私が何十年間、言うてきたこと、受けてきたおかげのこと、体験それをもう一遍確かなものにして、いよいよ確かな合楽理念として、確率さしていかなければならないんだというふうに思うのです。「みんなもこのとおりにおかげが受けられる」、ということは、そのように難しいことだということであります。合楽理念はそれこそ、楽しゅう有り難く、しかも愉快に教える。またそれがでけるように教導される。ところがなら実際に、私がこの3日間苦しい思いをさせて頂いた時には、楽しさもなからなければ、愉快さなどはもうさらさらない。ただ、おすがりをするだけ。
 今朝からご神前に出て、そのことを思わせて頂いておりました。私どもがね、信心がなからなければ、苦しいことばかりというのが世の中の、ま通例らしいですね。それこそ林芙美子さんじゃないけれども、苦しきことのみ多かりきの一生涯で終わるのでしょうけれども、なら、信心をさして頂いておりますと、ほんとにそれが有り難い、もったいない、そしていわば楽しゅう愉快に信心生活ができる。
 けれども偶々そこに、雨だ嵐だと言った様な事が、んならやっぱり起きてくるのである。生身を持っておりますから、なら病気と言った様な事もあるのです。そういう時には、ならもう楽しさも愉快さもないのだけれども、ただ一心にすがると言う事だけしかないのだ。だから私共がここに思わなければならない事は、その苦しい時にです、縋ると言う事を怠ってはならない、と言う事でございます。信心は確かに、少し分かってくると楽しゅうして、有り難うしてという、必ず誰にでもそこは、その境地は開けます。
 だからこそ朝の早うから、寒うても暑うてもそれがやってのけれれるのです。有り難いもなからなきゃ楽しさもない。ならば、とてもできることじゃありません。それができる。けれどもそれがならでける様になったから、もう一人前だと言う事は大きな慢心であると言う事。いつどの様な事があるとも限らない。いつどういう難儀に直面しないとも限らない。その難儀に直面した時に、苦しいことにあたった時にです、そこで挫折するような、例えばそこでへこたれるようなことであってはならない。
 それこそ泣く泣くでも辛抱して、そこをすがり抜かなければならない。なぜなのか、なぜそこをすがらなければならないのか。私は今朝、そこんところを神様から、傘、雨傘がもう上に飛んで、その傘の柄のところだけを、こういうふうに玉串を持つように、捧げ持つようにして、傘の柄、こうして持っておるところを頂いた。それはその、どういう苦しかっても、這い這いをしても、やはり神様にはおすがりをし抜くという、それはどういうことか。有り難くもならなかきゃ、愉快さなどはさらさらなおさらないけれども、ただすがらしてもらうというのはね、自分の心の中に頂いておる安心の心。
 例えば、よしこのまま命を落とすかも分からない。もうこのまま全快することが出来ないかも分からない。けれどもね、死に際にも願え、死んでからとて神の世話にならんわけにはいくまいが、と仰せられる、そういう信心を堅持したい、それを持ち続ける安心のおかげを頂くために、苦しいけれども、そこはやはり、すがり抜かなければならないということであります。
 苦しいからといってすがらない。楽しさもない、有り難さもないから、もう拝みもせん。そこにです、いわゆる神様との断絶があるのです。そこに不安が愈々募ってくるばかりということになって、また、その不安を取り戻すためにはまた、大変なことであります。私はおかげを頂いておるのは、そう言う所だと、こうこのたびの私がおかげを頂いたというのは、そう言う所から、自分でして自分で語り、自分で自分の声口に、いうならば陶酔しておったようなものから、また一つ脱皮して。
 合楽理念のいうならば、それをもう一遍このようにも確かなものだと言う事を、もう一遍いろはのいの字からね、初心に返って第一歩からもう一遍確かなものにして、愈々合楽理念の確立と言う事にはなるんだというものにしていかなければならない。自己陶酔の私であった。今度の病気でそれがよく分かった。その証拠には楽しさも有り難さも愉快さなどは、もうさらさらなかった。ただかろうじて、お縋りをすると言う事だけ、安心をいわば落とさないですんだと言う事だけが、まあ私の信心の取り柄でもあった。
 もう一遍、いうならば初心に返って、なら皆さんももう一遍初心に返って、一緒にそこからの合楽理念の行者ともならせてもろうて、愈々合楽理念というものがこのようにも尊い、このようにも有り難いもんだという体験を、改めて積み直していきたいと、私は思わして頂きました。成程「生神とは、ここに神が生まれると言う事であって、みんなもそのとおりのおかげが受けられる。此方がおかげの受けはじめじゃ」と、こう仰るが、その生神の境地というものは、そのように大変なものである。
 私は今朝から頂きましたお夢と、それとをね、いかにも自分で調子を上がっておるようにある、調子を自分で語っておるようにありますけれども、ひとたびその相方をはずれ、ひとたびつけてもらうことをしなかったら、もうぎっすりあがっていない自分というものに、初めて気がつかしてもろうて、もう一遍、金光様、お手数をかけますけれども、もう一遍始めから、合楽理念のマスターに取り掛かります。
 もう一遍確かなものに、だということを確信をもって、また皆さんにも聞いてもらえ、伝えれるようなおかげを頂きたいと思います、ということになります。生神への道というのは、やはりそのようにむつかしい、厳しいもの。だからむつかしいから、厳しいからというてね、ひと時でもなおざりにしてはならないのが、生神への道だと思います。
   どうぞ。